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  • 執筆者の写真sato

04-07 (補遺) 京都・熊野橋について

 日本における鋼材の発達は欧米諸国とほぼ同時で、また、鋼材が建築部材として使われる過程でラーメン構造が生まれ橋梁に転用されたとすると、日本の鋼製ラーメン橋脚の起源を探るのは難しい。鉄道橋では1912(大正11)年の淀橋跨線橋とされているが、こと道路橋となると年代も場所も定かではない。その中で、京都の琵琶湖疏水にある熊野橋の橋脚が鋼製ラーメン橋脚である可能性について考えてみた。

 

 熊野橋は1923(大正12)年に架けられた、橋長22.7m・幅員8.5mの3径間連続RC混合桁橋である。

 この床版には、1881(明治14)年にフランスのモニエ(J,Monier)がI字鉄桁の間に鉄筋コンクリート拱床を有する橋梁の発明特許を取得したモニエ・アーチスラブ(Monier GewÖlbe)と呼ばれる構造が用いられ、拱矢比約1/10を有する特徴がある。この構造は、1884(明治17)年にモニエの鉄筋コンクリート構造の実施権の譲渡を受けたドイツのワイス(G,A,Wayss)が実験を重ねて改良した構造であり、ワイス式とも呼ばれ、欧州では建築の床構造に多く採用されたという。

 日本では1910(明治45)年、京都市岡崎公園内に完成した「京都商品陳列所」で初めて採用されたと考えられる。この建築物は1905(明治38)年に建築計画が立てられた際、京都高等工芸学校教授であった武田五一が建築計画を担当し、京都帝大土木科教授であった日比忠彦がその床構造を担当した。日比は1902(明治35)年より2年間、ドイツの工科大学で鉄筋コンクリート工学を研究しており、その成果として床板構造にモニエ・アーチスラブ構造を採用した。しかし、当時の欧州においても鉄筋コンクリート構造の評価は定まっておらず、鉄筋コンクリート造りの教会の安全性が疑問視されて使用許可が議論されていたという状態であった。そうした状況もあって「京都商品陳列所」の壁はレンガ構造とされ、鉄筋コンクリート構造は床構造だけの採用に留まっている。建築に際して多数の建築及び土木技術者が集められ、2m角のスラブの公開荷重試験が実施された。そのスラブの強度に設計した日比自身も驚いたという。

 このモニエ・アーチスラブを用いた橋を京都府では「鉄筋橋」と呼び、府および市で明治大正期に多数架設されたとされる。モニエ・アーチスラブは複数の鉄骨を渡す構造で、それらを支える梁が橋脚に必要となる。そのため、橋脚と梁を結合させると鋼製ラーメン橋脚のような見た目になるが、実際にラーメン構造の効果があるかは定かではない。仮に鋼製ラーメン橋脚であるなら、道路橋に鋼製ラーメン橋脚が採用された年代は鉄道橋とさして変わらないことになるが、その真偽は定かではない。また、「鉄筋橋」が多数架けられたとすれば、それ以前にも同じような橋脚が存在していた可能性がある。

 

 しかし、そもそもなぜ熊野橋に「鉄筋橋」が採用された理由はよくわからない。熊野橋が架けられたのは1923(大正12)年だが、この区間の琵琶湖疏水が完成したのが1914(大正3)年でおよそ9年のブランクがあることから、この熊野橋の以前に初代の熊野橋があった可能性がある。初代の熊野橋が木橋など「伝統的」な橋梁だったとすれば、そのデザインが踏襲されたとも考えられる。

 熊野橋に先立つこと1911(明治44)年に五条大橋が、1912(大正元)年に三条大橋が京都府によってそれぞれ架け替えられた。この当時の京都府は風致保存の観点から近代的な橋のデザインを「復古調」としており、その流れが熊野橋にも及んだ可能性も考えられるが、今は推論の域を出ない。


 熊野橋は2017(平成29)年3月に補修・補強工事が行なわれた際に一部がコンクリートで補強されたが当時のラーメン構造のような橋脚は残された。

 同時に、日本で最初期のラーメン橋脚の道路橋である可能性も残された。しかし、その経緯や詳細は未だ霧の中にある。



<参考文献>

山根巌「明治末期における京都での鉄筋コンクリート橋」,土木史研究 第20号,2000年5月

『京都と近代 せめぎ合う都市空間の歴史』中川理著,鹿島出版会,2015年7月

『京の橋しるべ 第12号』,京都市,2017年12月発行

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