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01-02 神戸の市内縦貫鉄道問題【問題の経緯】

更新日:2020年10月11日


 

※およそ25,000文字の長文です。

 

 神戸の中心部を東西へ貫く「神戸市街高架線」は、第一期工事が1931(昭和6)年に、第二期工事が1937(昭和12)年にそれぞれ完成した。

 鉄道の高架線は明治後期から主に首都圏で建設され始め、関西では新京阪鉄道(当時,現在の阪急京都線)が1925(大正14)年に天神橋駅周辺で建設したのが最初と言われ、それ以降も大阪市内を中心に高架線が建設されるようになった。


 さて、高架線の建設が検討された当時の神戸では、開港による外国人居留地の建設から急速に市街区域が発展した影響で様々な齟齬が生じ始めていた。


 神戸市ではそれらの諸問題を都市計画で解決しようとする気運が高まり、その中で鉄道の立体交差化が問題になったのだが、その方法を巡って鉄道省(当時,現在のJR)と神戸市との間で意見が対立することとなった。




神戸の市内縦貫鉄道問題と市区改正

 1888(明治21)年、東京で首都建設を目的とした「市区改正計画」という名の都市計画を推進すべく、同年8月に「東京市区改正条例」が公布された。これは首都という立場から東京で制定された条例ではあったが、近代的な都市を構築するための解決すべき諸問題を抱えていたのは東京以外の都市でも同じことであった。それらの都市でも市区改正の必要性が訴えられ、神戸市では1912(明治45)年、神戸市長が東京に倣って市区改正調査委員条例を制定することとし、市会の議決を経て1914(大正3)年に市区改正調査委員会条例が制定された。


 ところで、神戸市が抱えていた都市問題の一つに「市内縦貫鉄道問題」があった。神戸は明治期に外国人居留地ができてから急速に発展したために市街地整備が追いついておらず、そんな中で市内を東西に貫く鉄道線は南北に走る細い道をいくつも遮り、踏切は十数ヵ所に達していた。また、一部では中心部に数万坪の敷地を持つ神戸停車場周辺の鉄道用地が市の発展を妨げるとも考えられていた。


 1893(明治26)年、神戸市会では神戸停車場を除く鉄道庁舎や工場を移転するように県知事にお願いしてもらう内容の建議が議題となり可決されたが、結局は奏功しなかった。

 それから20年近くが経過し、市街地が拡大し商工業が発達していくとさらに鉄道施設や線路全体が弊害を及ぼすようになっていき、1907(明治40)年にも鉄道線路改築と工場移転の建議が市会に提出された。この建議も可決され、関係筋へその旨を申請したところ、「改築する計画はあるがまだ公表するには至らず、予算も明治41年度で計上しようとしているので明言は難しい」といった回答を得たという。


 こういった動きが過去にあり、市内縦貫鉄道問題は市区改正の根本かつ先決の問題と捉えられていたのである。




平面交差の解消と都市計画

 神戸市の市区改正調査委員会の元となった東京の市区改正委員会では、市中に乗り入れる鉄道については高架鉄道または地下鉄道を原則とする方針を固めていた。


 1919(大正8)年に作成された『東京市内外交通ニ関スル調査書』では高架鉄道の特性について以下を挙げている。


地下鉄道より工事費が安く済む点においては優れている
従来最も広く採用されている鋼鉄構造の高架橋は、市街の美観を損ねている点、騒音が激しい点、街路の採光の妨げになる点、車や馬の通行の邪魔となる点が大きな欠点である。
さらにこれを街路の上に建設するために多くの場合では家屋を取り払って道路を拡張する必要がある
東京市内高架線に採用されている煉瓦アーチ、鉄筋コンクリートアーチ、ニューヨークのブールバールで採用されている特殊構造の鉄筋コンクリートアーチの高架橋は幾分騒音を軽減させる長所があるが、その他の点は上記と変わらない
高架の不利な点は、高架鉄道同士が交差する場合や高架鉄道を横断する場合に乗り越えるのが難しくなる点で、その交差点に駅を設けようとすると工事が困難となるばかりか、付近の住民に迷惑を被ることになる

 日本で最初の高架線とされるのは、1904(明治37)年に総武鉄道が本所(現在の錦糸町)~両国橋(現在の両国)間のおよそ1.5kmに建設した高架線で、その後、煉瓦アーチの高架橋を基本とした新永間市街線が1909(明治42)に完成すると、1912(明治45)年には万世橋高架橋、1919(大正8)年には東京万世橋間高架橋がそれぞれ完成しており、調査書で挙げられた「東京市内高架線」はこれらを指している。


 しかし、当時は高架鉄道に対して否定的な考えが広まっていた。当時、欧米諸国を視察してきた政治家の中にはニューヨークの高架鉄道なども見聞きしてきた人たちもいた。当時の高架橋には鋼製で開床式の桁が採用されていたらしく、列車の走行音が響いて騒音が激しいという欠点があった。


 日本初の総武鉄道の高架橋も、煉瓦の橋脚に鉄桁を並べただけの高架橋だったので騒音が激しく、列車からの落下物にも無防備だったという。こうした“高架線(高架橋)=鋼製=うるさい”という構図は当時の議論ではおよそ一般的な意見だった。


 調査書にも触れられているように、煉瓦アーチの高架橋を基本とした新永間市街線、盛土高架も併用された万世橋高架橋、鉄筋コンクリート造(外観は煉瓦タイル貼り)が採用された東京万世橋間高架橋など東京市内の高架橋は鋼製ではなく、鋼製の橋桁が用いられた架道橋にも枕木の下に道床バラストを充填して騒音対策が施されていた。


 しかし当時の日本には高架線がまだ東京にしかなく、“高架線はうるさい”というイメージを覆すのはまだ難しかったと考えられる。


 一方、地下鉄道の特性として調査書では以下が挙げられている。


◇高架鉄道と比べて工事費が高くなる傾向がある
◇高架鉄道は付近の住民に不快感を与えるが、地下鉄道は乗客に不快感を与え、空気の流通が良くないこともあって不衛生になるのは免れない

 地下鉄道の欠点はあまり挙げられていないが、地下鉄道の知識や体験が乏しかったために高架鉄道の負のイメージからの反動が地下鉄道に向けられていたのかもしれない。加えて、地下鉄道であれば電線などの埋設工事も同時に施行できて地上部分を道路や住宅地にでき、効率的だと考えられていた。


 

 東京地下鐵道株式会社(当時)の副社長・中川正左が1924(大正13)年の『道路の改良』に寄稿した「地下鐵道に就いて」という論説では、「東京に比す可き各国六都市」としてニューヨーク、ベルリン、パリなどを例に挙げ、都心部を地下鉄道、郊外に高架鉄道を設けるのが好ましいとしていた。

(略)…故に将来大都市として益発達せんとする東京市に於ける高速鉄道は原則として地下鉄道に依る可きものたることは議論の余地なき処であって郊外に於ては人家稠密ならず、用地も亦比較的廉価なる関係上寧ろ高速鉄道に依る方適当にして更に遠く都市を離れたる地に於ては路面鉄道と為すも差支無かるべし。

 また、1919(大正8)年の『工学会誌』には、鉄道院監督局長による寄稿文が以下の内容で掲載されている。

高架式には鐵橋式アーチ式の二あり、鐵橋式は工事費少なるも、電車の通過毎に騒音を發し、(中略)アーチ式は音響は非難するものなきも、之が為め市街を汚すこと多く、日本橋京橋間の如きには不適當なり。
殊に前叙地下鐵道と道路の新設と相俟ち工事を為すときは、高架式に比し地下式の優越するは論ずるまでもなかるべし。

 地下化を推奨するような内容であると同時に、東京市内高架線で採用されたアーチ式でさえも好ましく思ってなかったことが伺える。


 このように欧米諸国の都市を参考に、都市の美観との兼ね合いもあって鉄道の地下化を求める傾向が当時にはあり、神戸市もその流れを受けて市内縦貫鉄道問題を解決しようと考えたのである。




鉄道院の計画と神戸市の思惑①

〈高架と地下の対立〉

 1917(大正6)年に神戸市の市区改正調査委員会は、市内縦貫鉄道問題に関して市長に関係筋へ嘆願する決議を行なうよう市会に訴え、翌1918(大正7)年2月6日の市会に「市内鉄道線路ノ改良ニ関シ内閣総理・内務・大蔵・逓信ノ各大臣及ビ鉄道院総裁ニ意見書ヲ提出ノ件」が提出され、同日可決された。


 この市会で5名の上京委員会が指名され、鉄道院(のちの鉄道省)や内閣総理大臣等、関係各所に意見書を提出して運動を開始した結果、委員会の要求は全て可決され、鉄道院からも調査をするという反応を得た。


 しかし、神戸市会はその時すでに鉄道院が市内縦貫鉄道の改築に向けて動き始めていたとは知らなかった。


 

 実は鉄道院も神戸市内の主要な道路と平面交差していた踏切を開通当時から危険視し線路の改築の必要性を認識しており、それに加えて、その改築の際には輸送力の増強をはかって複線の外側に2線増設することも加えて考えていたのである。

 1916(大正5)年から市内縦貫鉄道の改築を7ヶ年計画として計上し調査を重ねた鉄道院は、新生田川から三宮駅(現在の元町駅)と神戸駅を経て兵庫駅の西寄りまでのおよそ3マイル(≒4.8km)を4線の高架とする計画を立て、兵庫県知事、神戸市長、神戸商業会議所、神戸税関長にも意見を求めることとした。


 奇しくもその時期は神戸市が運動を始めた直後で、神戸市会にはこの鉄道院案が“上京委員会による要求の回答”と受け止められたと考えられる。


 1918(大正7)年5月17日付の神戸新聞には『市内縦貫鉄道改築計画』という記事が掲載されている。

…(略)…市内縦貫鉄道改善問題は、我が神戸市の消長浮沈に関する重大問題にして、之が速成は市民の□望已まざる所、昨年市会及び商業会議所よりは委員を東上せしめて関係官庁に就き運動する所あり、第四十議会にはこれに関する建議案の可決せらるるあり。鉄道院にては該建議の趣旨を容れ設計中なりしが、近者高架改築案成りて之を西部鉄道管理局に示し、同局より之を兵庫県、神戸市会、神戸税関、神戸商業会議所に諮問する所ありしことは本紙既報の如し。改築案の内容は、東は生田川尻より、西は兵庫菅原通三丁目間を高度十三尺の開渠式高架複々線とし、其下に倉庫を建設して貸付け、神戸駅は単に乗客のみを取扱い、荷物は小野浜駅及び兵庫駅にて取扱い、両駅間に別に海岸に沿い荷物線を新設せんとするにあり。
現在に於る如く、国有鉄道が市内の最も繁華殷賑なる中枢地区を縦貫し鉄道の軌道と道路面とが同表面にて交叉し、一般の交通貨物の運搬と、商工業の進歩、市の発展を妨害してある情態は、到底永く看過放任し難き所にして、鉄道線路改築は成るべく之を急速ならしめざる可らざるやより論なく、之が実行は一日も速かに一刻も早からんことは何人も之を固望む所也と雖も、鉄道改築は実に我神戸市の市区改正、港湾設備、海陸連絡の前提を為すものなれば、之が設計及び計画は宜しく極東の一大市場たり、世界的大商港たる神戸港の将来の大発展を期する潤大なる見地よりして之を決定せざる可らず。事は我が神戸市将来の発展に至大至重の関係あり、所謂急いで急かれぬ重要問題なれば、彼是れよりも宜しというが如き簡単なる理由を以て之を決定することなく、遠く時運の趨勢と、我が神戸市の占むる位地とに考察し先見と遠慮とを以て適切なる判断を下し、悔を将来に貽すが如きことなからんことを勧告せざる可らず。

 当時の、高架より地下を良しとする時勢に反して高架化とする鉄道院からの回答には多少の驚きがあったかもしれないが、上京委員会が意見書を提出してわずか2ヵ月後のことであり、世論では再考してもらえる余地があると考えられていた。


意見を求められた神戸市では、


①鉄道院の高架線案

②神戸港側に高架の線路を敷設する海岸線案

③新たに地下線を建設する地下線案


の3案が考えられ、それらの中でもやはり③地下線案が好ましいとされた。

…(略)…現今鉄道院の提示せる如き高架式を採用せんとするは時代遅れにして東洋第一の貿易港を控ゆる新進都市を蔑視せるものなり。殊に市の中央を貫通する線路を踏襲せんとする如きは市街の体面を損すること甚だしく、最近内務省が都市計画を立て交通機関の整理を云為せる趣旨にも反すべく神戸市の鉄道は地形上山手地下線式に若くものなかるべしと意見一致せるものの如し。而して鉄道院側の意見として訪問伝えられつつある神戸市の地質が地下式に適せずとの説は、実際を知らざる机上の空論にして地下式は左迄難事業にあらず。工費の点に於ても比較的少額にて成功し得べく、工費多額のために実施を躊躇せざる可らざるが如きことは絶対になし。而して目下問題となれるは区間及び神戸駅の処分にあり附替距離は他日隣接町村併合を予想し須磨駅まで延長すべしとの説あるも結局長田村附近に限定するに至るべく予想されつつあり、尚神戸駅の存廃問題の如きも現線路を踏襲する場合は論外なるも、山手地下式に決定せば無論廃止の外なく、結局は兵庫駅を新開地上手に移転し構内を拡張し現在の神戸、兵庫両駅を合併せる以上の大停車場たらしめんとの説頗る有力なるが、鉄道院従来の態度に徴せるに諮問案根柢より転覆する如き答申案を果して採用するや否やは疑問なれば、斯る場合は市民の与論を喚起し其筋に向っては極力運動し徹頭徹尾初志を貫徹すべしと

(神戸新聞 1918(大正7)年7月14日付『縦貫鉄調査進捗 近日具体的意見書作成』、句読点の一部を付加)


 神戸市が地下線案を推し進めるのには、同時に市内中心部を縦貫する線路を移転させ、その線路跡地を有効活用しようとする意図があった。そのため、線路を地下としつつ、さらに山手へ移設しようとする「山手地下線案」が神戸市の主力案となった。


 

 神戸市が山手地下案を有力視したのには、京都帝国大学工科大学長だった田邊朔郎が地下トンネルの建設は可能であると判断したことが背景にある。琵琶湖疏水を完成させた田辺朔郎にはトンネル技術によって神戸市の近代化に寄与できると考えがあったのかもしれない。


 だが、具体的な山手地下案を知る手掛かりは少なく、1923(大正12)年に発行された『神戸縦貫高架鐵道ニ関スル諸問題』(神戸市役所都市計画部 発行)でも簡略な地図に山手方向に湾曲した路線図の線が引っ張られているにすぎない。


 そこで、1918(大正7)年10月22日付の神戸又新日報の『決定の地下線 第一案が容れられざらば第二案を提出』という記事をもとに、記載されている地名を引いてみることとする。


(第一案)

・現在の鉄道線路と春日野筋に分かれてすぐに地下線となり、国香通四丁目を経て生田町三丁目に出る

・再び地下線となりて下山手七丁目で地平線となり、楠町八丁目を経て荒田四丁目まで到る

・そこからまた地下線となって会下山下を潜り、神港商業学校上から地平線となる

・番町四、六、七丁目を通過し、更に蓮池にて地下に潜って双子池にて現鉄道線に合流する

・停車場は三宮・神戸両駅とも廃止して生田町三丁目に東部停車場、宇治野に中央停車場を新設し、猶番町七丁目に西部停車場を設置する


(第二案)

・東部停車場までは第一案と同案

・東部停車場から北野町、神戸女学院の地下を走り、花隈町八丁目で地上に出る

・そこから高架線となって長狭橋で現在線に合流して神戸駅に至る

・そのまま現在線を高架線として鷹取駅に至る


 市会と市区改正調査委員会は第一案を、商業会議所は第二案をそれぞれ主張し議会は紛糾したが、第一案を鉄道院に答申することとし、もし鉄道院が拒否した場合には対案として第二案を提出することとなった。ただし実際には、鉄道院へ1918(大正7)年11月19日に神戸市長から、29日に神戸商業会議所からそれぞれ返答したことになっている。


 しかし、神戸市側の地下化の要求は鉄道院に当然受け入れられることはなく、1919(大正8)年5月、石丸鉄道院副総裁が神戸市を訪れ、神戸市内縦貫鉄道は高架化とすることが宣言されたのである。




鉄道院の計画と神戸市の思惑②

〈高架工事案の決定〉

 1918(大正7)年9月、内務大臣が認める五大都市(横浜・名古屋・京都・大阪・神戸)にも市区改正条例が準用されることとなり、1914(大正3)年に神戸市が設置した市区改正調査委員会に代わって内務省の機関として東京に神戸市区改正委員会が設置された。その結果「市内縦貫鉄道問題」は神戸市会から神戸市区改正委員会へ移管されることとなった。


 鉄道院副総裁が高架化を宣言した5ヵ月後の1919(大正8)年10月、鉄道院総裁の名で市区改正委員会に高架化に対する照会案が提出された。

1.現在の鉄道線路の位置そのままに高架に改築し、その下を一般公道とする部分の構造は約18尺の距離に約6尺角の鉄筋コンクリート柱を中央に1本、車道と人道の境界に1本、合計3本の柱を立てる。その上部は全て鉄筋コンクリート構造とし、鉄道線路6線を敷設可能な幅員を確保する。この区間の高架線の直下は全て有効幅員5間の車道2列を設け、中央柱の両側に鉄道と並行する市街電車線を敷設可能のものとする。車道の両側には現在鉄道線の両側にある道路の一部を利用して有効幅員約3間となる人道を設ける。
2.高架区間は東は生田川西方から始まり、西は兵庫停留場の西端で終わるものとする。
3.高架区間に介在する踏切は全て撤去とし、平面交差を解消する。
4.高架区間に介在する水路は従来の位置のまま高架の下を横断するものとする。
5.高架区間の停留場は三宮・神戸・兵庫で、現在位置と同じ場所に設置する。
6.市街電車線を通す箇所は地表面から高架下まで15尺の高さとし、それ以外の区間は13尺以上とする。

 柱や上部構造を「鉄筋コンクリート」と明記しているのは、鋼製ではないことをアピールして高架線に対する負のイメージを少しでも払拭させようとする狙いがあったのかもしれない。

 また、神戸市が線路を山手方面に移設させてその跡地を道路に転用しようとしたことを受けてか高架下を道路に利用できるように提案しているが、一方でそのために6線敷設を可能とする幅員を設けようとするしたたかさも垣間見える。


 この鉄道院の照会案を中心に市区改正委員会が協議した結果、高架案を受諾せざるをえないという結論が出された。


 それまで市会や市区改正調査委員会が地下化を求め続けてきたことを考えるとあっさり意見が翻ったようにも見えるが、神戸市会が提起した問題に対して東京にある国の出先機関がどこまで問題意識を共有できたかは疑わしい。あるいは、内務省の出先機関である市区改正委員会と同じく内務省の直属機関である鉄道院が、一地方の都市景観を巡って敵対することはあるのだろうか。それらを勘案すると、市区改正委員会にとって高架案の受諾は仕方ないことと捉えられたと思われる。


 それでも、その代わりに市区改正委員会は神戸市に少しでも有利になるように鉄道院の照会案に以下の条件を付けることとした。


1.三宮~神戸間も他と同様4線として、高架下の道路については市区改正委員会か神戸市で改めて計画を立てることとする。
2.高架線の両側に3間以上の鉄道用地を設け、これを道路として利用すること。
3.その他の設計内容は将来に及ぼす影響が大きいので、細かい実施設計についてはさらに協議するものとする。

さらに希望条項として、


1.高架線の高さは、市街電車線を通す箇所は18尺以上、それ以外の区間は15尺以上とする。
2.高架区間は灘駅から鷹取駅までの区間とする。

 鉄道院がしたたかに狙った6線敷設可能な幅員はさすがに早々と拒否されたが、それ以外の構造に関する提案についてはおよそ承諾された形となった。


 しかし、鉄道院が高架化を宣言してもなお地下化を諦められない市会では、調査委員会で地下化を多数決で可決している(大阪毎日新聞 兵庫県附録 1919(大正8)年11月25日付『神戸縦貫鉄道 地下案可決さる』)。


 当時の論調を、大阪朝日新聞 神戸附録 1919(大正8)年10月31日付『市内縦貫鉄道は飽く迄地下式を主張 市百年の大計よりせば地下式でなくては嘘』という記事から拾ってみる。


1. 鉄道院は地下式とせば長年月を要すべしと云うも進歩せる今日の隧道開鑿法は決して去る心配無し長年月を要すとは鉄道院の威嚇なりと信ず
2. 経費は近藤博士の説に依れば四百五十万の差ありとの事なり僅に是ばかりの経費の差とせば市百年の大計の上より幾分市に於て負担するも地下式を取らざるべからず
3. 政府は飽くまで高架式を固執するや否やは重大問題なるが、嘗て議会に於ける言明もあり且つ神戸市民の与論を思いて今日まで実行を見合わせ居る程なれば市民一致頑強に地下式を叫ばば政府の意思は翻し得べし
4. 鉄道院案を見るに湊西区方面土地買収を見込み居らず愈々着工せば買収の必要あるべく其の経費を加うれば高架式必ずしも地下式に比し安上りならず
5. 今回の高架式は新式なりと云えど決して然らず大体は二三十年より設計せられたるものにして進歩の跡見えず
6. 高架式の高さは十三尺乃至十五尺なるが之位にては其の下は闇黒を免れず又年中湿気あるを遁れ難し、果して然らば其の下を道路としたればとて実用に供し難きにあらずや
7. 高架支柱の廻り六尺もありては下を電車道とすること難し、何となれば柱の為め人影、車影隠れ為に危険を伴うべければなり
8. 改良は現鉄道の運転を行いつつ行わざるべからず、而して地下式ならば山手に隧道を穿ち竣工の上レールを敷設すれば足るを以て高架式に比し附替工事頗る安全容易なり
9. 地下線とし神戸駅移転とならば茲に駅跡六万坪を市街地と為し得る利益あり同時に又相生橋の必要も無くなり市街は大に整うべし
10. 地下線とせは現線路跡を一大道路と為し得茲に市街縦貫路の理想を実現し得べし

 2や4では経費面でも地下化は高架化に劣らないことを主張し、9や10では線路跡地を有効活用したいという意見が反映されている。

 また、5では高架は古いものと考えられていて、先に述べたように鋼製高架橋に対する印象の悪さもさることながら、「新しい地下式を神戸市が導入する」というプライドもあったことが見受けられる。当時の神戸市では“百年の大計”という言葉が多用されるのだが、都市の美観や機能を100年先を見据えて計画する意気込みが神戸市にはあった。そこに“古臭い”高架鉄道が導入されることにジレンマがあったのかもしれない。

 6に至っては、むしろ地下式の欠点とされる内容であるが、それを高架式に当て嵌めて嫌悪感を示している。


 1920(大正9)年、1月に施行された「都市計画法」により市区改正委員会は都市計画神戸地方委員会に改組されて県庁に設置されることとなり、同時に神戸市には都市計画部が設置された。また、5月には鉄道院は鉄道事業の権限強化・独立を目指して鉄道省に昇格した。

 こうして「市内縦貫鉄道問題」は再び地元に委ねられることになったが、前身である市区改正委員会が鉄道院の高架案を受諾してしまった以上、これを大きく変えることが難しい状況であった。


 事実、市区改正委員会に付加された条件を検討した照会案を1921(大正10)年12月に鉄道省が都市計画神戸地方委員会に提出した際、市会関係の委員は当然ながら地下式を主張していたが、商業会議所関係の委員が高架式に同意したために彼らも条件付で賛成せざるをえない状況に追い込まれ、結局高架式が決定する事態となった。


 神戸市内縦貫鉄道を改築しようとした時期が奇しくも市区改正委員会が内務省内に設置される前後であったことは、結果的に鉄道院(鉄道省)にとって決して悪いタイミングではなかったと言える。


 この時の照会案では前回の案からさらに踏み込んだ具体的な記載が見られ、その上で幾つか追加・変更された点がある。


和田岬線及び兵庫貨物扱所~鷹取駅との間に貨物線路一線を新設する。
灘~鷹取間は高架式とし道路との平面交差を避けるものとする。
停車場は三宮駅を加納町踏切附近に移転し、その他は大体現在の位置に設置する。
高架線下を公道に供する区間は新三宮駅~神戸駅間とする。
鷹取駅に操車場を設け兵庫駅及び和田岬線各駅に於いて取り扱う貨物操車の用に供する。

 高架の区間が当初の予定より長くなり、現在の三宮駅が設置されることが決定したのがこの照会案の時であった。また、同時に建設されることになる海岸線の概要が提示されるのもこの時なのだが、海岸線についてはまとめて後述する。


 1922(大正11)年10月、都市計画神戸地方委員会はこれらの案に対して、一部構造を変更することを条件として異議のない旨の答申を行なった。そして1924年(大正13)1月、鉄道省は答申を中心にまとめた決定条項を通達する。


1.神戸製鋼所西側~新生田川間及び菅原通~新湊川間を土留築堤式からスラブ式に変更する。
2.架道橋の新設と拡張を行い、新湊川以東で新設6ヶ所・拡張16ヶ所、同以西で新設7ヶ所・拡張6ヶ所を計画する。
3.灘、神戸両駅の広場を拡張整備する。
4.高架線西側道路を決定する。
5.高架線は神戸市を縦貫する防火壁の用を足すべきものとして、高架下約30mごとに防火壁を設ける。

 このうち、1の事項に関しては神戸市の意向により変更したために工費の増額分を神戸市が負担する形となり、増額分を含めた神戸市の工費分担金の総額は152万円になると予想された。




鉄道院の計画と神戸市の思惑③

〈地下案推進派の反論と終焉〉

 ところが、市会や世論の一部ではまだ地下化を主張する流れがあり、その不満が1925(大正14)年2月の予算案審議で「神戸市内縦貫鉄道改良工事ノ設計変更ヲ其筋ニ請願セムトス」という建議が提出される形で表面化した。灘駅~新湊川間を地下線とすることを請願するこの建議は、採決の時に賛成・反対どちらも起立多数となって混乱するなどしたが、1票差で成立し調査委員会を設けてそこに付託することとなった。


 しかしその2ヵ月後、議員任期満了により建議が失効するという事態に見舞われる。

そこで7月に改めて「神戸市内縦貫鉄道改良工事設計変更ニ関シ意見書提出ノ件」という建議が改めて提出されることになった。こちらもやはり建議は成立し15名の委員付託となり、調査委員会が市会に報告書を提出してさらに意見書は審議に入ったが、長時間の質疑応答の上で記名投票がとられた結果、賛成25・反対29となって否決されてしまった。この時に調査委員会の人間で反対票を入れてる人がいるとの疑いがあって、再び記名投票した結果、賛成26・反対28となり市会でも正式に否決されることとなった。


 地下化を唱え続けた市会で反対票が多くなったのには、すでに着工されている高架化工事を中断させてまで新たに地下線の建設を訴えることは得策なのかと考える人が現れたことも影響している。

 また、2月の建議の直後には見かねた鉄道省から新聞社に意見書が寄せられていた。


1. 神戸高架線は現在東海道線京都神戸間複線を更に二線増設すると共に、神戸市内を高架に改築せんとするの計画なり。
2. 京都神戸間は列車往来頗る頻繁にて殆んど今日以上に列車の増設不可能なる有様なるを以て二線増設工事は急務中の急務に属す。又現在線路は神戸市内を平面交叉するが故に市内交通上重大なる障害を与うる為め、同市に取っても亦焦眉の急務たり。
3. 政府は大正八年神戸市区改正委員会に附議し、設計上に於ては神戸市よりは多くの希望を容れ計画を樹て議会の協賛を経る所ありしが、財源等の関係にて今日まで着手の運びに至らざりしは大いに迷惑とする所なり。
4. 本工事は一日も早く完成せざれば鉄道の輸送上多大の支障あるより目下財政の都合上、本年より用地買収に着手したるも十九年度迄には完成せず。今後万一財源の増加を容すの機あらば繰上げ施行を望み、同年以後に繰延ぶることは忍ぶ所にあらざるのみならず、神戸市に取っても多大の苦痛なるべし。
5. 近頃神戸市に鉄道省の高架改築を地下に変更の希望ありと聞くも、公式にその計画の内容を知らざるを以て適当なる批評を下し難きも伝承する所に依れば、先年神戸市民一部に唱道せられたる山手方面地下通過と異り、現今鉄道線通過地点を地下に改築し其の上を国道と為さんとするものにして高架地点に改むるに要する経費の増加は、神戸市之れを負担せんとするものの如し。今仮りに今の通りなりとして左に意見を開陳せん。
6. 地下説を主張するものは東海道線は我国の主要なる幹線たるを忘れ一般欧米各国に於ける市内の高速鉄道と解する基くに因するならん。同線が最重要なる幹線なる以上線路の購買停車場の設備と市内の地下線鉄道と同一視すべきものにあらず。如何なる設計を採用せんとするか工事費は幾何を計上せるや又運転中工事の方法如何。
7. 地下線上道路を相当の延長国道に利用せざれば効なきことと思うが、既に工事中なる鷹取及び灘操車場を其の侭とし幹線に許す程度の緩勾配の線を造り、神戸三宮各駅に相当の設備を施し果して長距離の国道を計画し得るや疑いなき能わず。
8. 工事費は先年の計画たる地下は高架の倍額では不可能なる□を俟たず、又工費は現在線路の延長を休止することなく工事施行の成算なし。然りとて一時海岸線に引換運転の如きは臨時不可能なり。
9. 工事費高く神戸市負担として提供せらるること事実に於て確実なるも此の如き不確実なる計画の下に最重要なる幹線改革工事を変更し得るものにあらず。
10. 地下鉄道は耐震的構造たらしむることは或は可能ならんも強震に対し全く亀裂を生ぜざらしむる事は不可能ならん。其の結果漏水を生ぜんか重要幹線を長く普通の状態にあらしむるが如きことは到底忍び得る所にあらず。
11. 之れを要するに鉄道省にあっては現下鉄道に変更の意思全く絶無なり。
12. 鉄道省計画の各線路は現在東京市内に存する高架線とは其の構造を異にし、高架線の橋梁直下を電車を通じ得る設計にして、此の構造は外国に於ては紐育にあるも鋼鉄構造にて外観甚だ醜く且つ音響甚だしく大なる欠点ある為め、神戸市に敷設せんとするものは全部コンクリート造りにして都市の美観を損せず。而してコンクリート構造の高架線は紐育の郊外に一哩内外の極めて短距離のものが実施せられ居るのみにして世人は高架線と云えば直に在来旧式のものを想像すれども、今回神戸市に設計せんとするものは一般の想像するが如きものとは全く其の類を異にす。然れば高架線に沿うて其の両側に相当の幅員を造れば立派なる国道と為すを得る以上の理由に依り、鉄道省は既定計画を遂行するに一歩も譲歩せず邁進するものであるから神戸市民も此の点は十分に了解し徒労なる反対運動を廃し、寧ろ鉄道省の既定計画の一日も速に実現し得るよう努力するが神戸市として得策なり。

(神戸新聞 1925(大正14)年2月16付『神戸縦貫鉄道の地下線変更は遂に絶望 鉄道省一歩も譲歩せず』、句読点を付加)


 鉄道省としては限られた予算や期間の都合上からも工事を滞らせるつもりはないという趣旨の意見書であるが、12番目の項目では高架橋に対する理解を得ようとしているのは興味深い。地下線に拘る背景に、高架線に対する悪いイメージがあるということを鉄道省も理解していたのかもしれない。

 こうして鉄道省線の地下化を断念せざるを得なかった神戸市は、同時期に三宮乗り入れを一部高架で提案した阪急に対してその矛先を向けることになる。




地下案に関する考察

 神戸市が推進した地下化への働きかけは失敗に終わったが、ここで改めて地下案について考えてみたい。


 当時のトンネル掘削技術は手掘り中心の山岳工法と開削工法があり、神戸市内に地下線を建設するとした場合にも当然それらの工法を組み合わせることになったと思われる。しかし地面に大きな溝を掘った後に上部に蓋をして埋める開削工法では他の工法と比べて掘削深度が浅いので、完成後に地上を住宅地に適用するのはかなり難しく、また、あらかじめ地上の建築物を撤去する必要が生じるのでトンネル建設の他に土地の収用や賠償に費用がかかる。


…(略)…協議の重要部分を占めるものは敷地問題で、例えば宇治川以東を地下線とするにしても最初から隧道式に開鑿されない場所は、先ず堀割式に工事を施し線路敷設を終えてから蓋をする箇所などがある。斯ういう区間の敷地は鉄道側と市側とに於て予め収用の方法を定めて置く必要がある。…(略)…

(1919(大正8)年2月6日付 大阪毎日新聞 兵庫県附録「市内縦貫鉄道敷地提供問題 設計基礎案成る」、句読点を追加)


 現在の開削工法は、土地の賠償を必要としない道路や河川といった線的なインフラの直下で主に用いられている。後年、神戸市の意向に沿うように三宮乗入れを地下式で対応した阪神電鉄も、ほぼ同時期に地上で阪神国道が建設されたので開削工法が可能であったと考えることができる。


 なお、上記の記事内の「掘割式で開通させた後で蓋をする」というのは施工内容に誤解があり、仮に神戸市内で開削工法によるトンネルが建設された場合にうまく都市計画に取り込めたかは疑わしい。開削工法では土地の収用・賠償に費用がかさむが、そもそも地下式には高架式より費用がかかるという欠点がある。


 そのため、神戸市は鉄道省が地下式を頑なに拒否するのはあくまで費用の問題で、「鉄道院は費用が無いから高架式を選択しているだけなのに、それを地質や工法・工期を理由にして地下式は不可能だとしている」とも考えていた。


…(略)…而して鉄道院側の意見として訪問伝えられつつある神戸市の地質が地下式に適せずとの説は、実際を知らざる机上の空論にして地下式は左迄難事業にあらず。工費の点に於ても比較的少額にて成功し得べく、工費多額のために実施を躊躇せざる可らざるが如きことは絶対になし。…(略)…

(神戸新聞 1918(大正7)年7月14日付『縦貫鉄調査進捗 近日具体的意見書作成』、句読点の一部を付加)


 一部の識者の中には、それなら費用さえ何とかなれば地下式に変更できるのではないか、と期待した者も居たらしい。


 しかし、もちろん鉄道省は費用だけで高架式を選択したわけではない。開削工法を使わないとすれば山岳工法を用いることになるのだが、実は地盤変位や地下水の水位低下などを考慮すると山岳工法を都市部に適用するのはかなり難しい。

 また、1925(大正14)年時点で最長の鉄道トンネルは1903(明治36)年2月1日開通の中央本線・笹子トンネル(4,656m)で、山岳工法でも5km以上のトンネルはまだ開通していなかった。仮に想定していた地下トンネルのいずれも5kmに満たなかったとしても、湊川付け替えで難工事だった湊川隧道がある会下山に新たにトンネルを貫通させる他、1972(昭和47)年に開通した山陽新幹線・六甲トンネル(16,250m)の建設で苦しめられた六甲破断線をかすめるなどして難工事になった可能性は十分に高く、鉄道省は地下式が技術的にも難しいとわかっていた可能性も考えられる。


 さらに言えば、蒸気機関車の煤煙も地下鉄道には不向きだった。長大トンネルが連続する峠などで蒸気機関車の機関士が煤煙で窒息死する事故は幾度となく発生したため、日本ではそうした長大トンネル区間から電化が進められた歴史がある。


 だが、神戸市がそのあたりについて触れている様子は見受けられない。実は市会議員たちが視察した欧米諸国の都市では電車による地下鉄がすでに開業しており、世界最初のロンドンの地下鉄は蒸気機関車だったが、2番目にできたブタペストの地下鉄以降は全線電化で完成している。そのため、電化された地下鉄を見ていたために蒸気機関車による煤煙は思い浮かべなかったのかもしれない。


 しかし当時は蒸気機関車による貨物輸送が主力で、全線電化で市内輸送を担う地下鉄とは性格も輸送量も異なる。鉄道省も1925(大正14)年に新聞社に寄せた意見書の中で、「6.地下説を主張するものは東海道線は我国の主要なる幹線たるを忘れ一般欧米各国に於ける市内の高速鉄道と解する基くに因するならん」という一文で釘を刺している。


 ちなみに、神戸方面では1934(昭和9)年7月20日に大阪~須磨間が電化されて電車運転が開始されるが、長距離輸送で蒸気機関車が電気機関車に置き換えられるのは戦後まで待たないといけない。


 

 後に神戸市と三宮高架乗入れで対立する阪急電鉄は、神戸市が地下式に拘ったのはやはり旧式の高架橋を想像していたのが大きいと見ている。

然るに曩きに鐵道高架反對の先入主的傳統論(多く研究を費やされざるもの又は米國に於ける舊式鐵桁式高架を想像して議論するもの)は相當に根強く、この當時會社の地下、高架併用式を申請するや次の如き反對理由が唱へられたものである。
…(略)…
即ち、以上の如き極めて獨断的でありまた幼稚なる高架反對論の外に、舊式高架(海外)の實例に囚はれて、都市の騒音激增乃至美観を壤けるものだ等と、種々の高架反對論が唱へられた結果、地下式をもつて郊外電鐵市内延長の鐵則であると傚し、或ひはこれをもつて神戸市の『市是』であるかの如き議論が漸次擡頭せんとしつゝあつた。

(『神戸市内高架線史』,阪神急行電鐵株式會社,1936年3月20日発行)


 奇しくも鉄道省が高架式にすると宣言した1919(大正8)年、三宮へ地下式と高架式を併用して乗入れを申請した阪急に対して、神戸市は当然のように地下式を要求した。しかし粘り強い交渉など紆余曲折の末、1933(昭和8)年に阪急は神戸市に高架乗入れの了承を得ることとなる。


もとより識者は地下式には囚はれなかつたのであるが、市民中の有志家なるものには、高架は神戸市百年の長計でないなどと前記の如く舊式な海外の高架式に囚はれて、地下線禮讃をなす者も少からずあった。即ち初期の高架反對論は此種の者に属するものが多く、昭和三年五月以降会社(※阪急)が省線の高架に並行して高架式を申請するに及んで、漸く地下式に囚はれず、高架改論者を多数みるに至ったのも、つまりはこの初期に於る高架反對論に對して充分反省と考慮の時日と餘裕を興へた結果に他ならぬといふのが蓋し正鵠を得たる見解であらう。

(『神戸市内高架線史』,阪神急行電鐵株式會社,1936年3月20日発行)


 申請から了承を得るまでの間に、阪急は“大阪市内高架乗入れ”として十三~梅田の高架化を1926(大正15)年に完成させていて、それが強みになっていた可能性もある。


 

 神戸市は市内中心部を縦貫する線路を移転させた跡地を有効活用することで“都市の美観”を得ようとしていた。改めて考えてみると、近隣の兵庫や大阪が自然発生的な町だったのに対し、神戸は外国人居留地の建設から人工的に造られた街であり、同じく計画的に造られた京都と比べると歴史が浅かったために、市街地の発展の自由度が他の都市より比較的高かったといえる。


 さらに神戸には、居留地があったが故に“外国人からの視点”を気にして“欧米諸国の都市に倣った美観”を求める傾向が強かった。

…(略)…過去半世紀間に於る我が神戸市の努力は、世界的商港たるの位置に達せんとする努力なりき。今後に於る努力は、世界的商港たるの位置を維持し、形体に於ても内容に於ても世界的商港たるの実を兼備へしめ、更に其位地を向上せしめんとする大努力ならざる可らず。東亜貿易の一中心市場たる神戸か世界貿易の一中心市場たる可きは我神戸市が担える大使命にして、自然の指定せる運命たる也。…(略)…

(神戸新聞 1919(大正8)年11月2日~11月8日付「縦貫鉄道改築問題 (一~七)」の(五))


 ところが、実際には具体的な区画整理や都市計画が立ち上がる前に街並みが形成されてしまい、思い浮かべる美観にはほど遠い街並みとなってしまっていた。そんな折、東京で起きた「市区改正」という都市計画の時流に乗ることで、改めて“都市の美観”を獲得しようとしたと考えられる。それにはどうしても地下線案を推し進める必要があった。


 しかし一方で神戸の市区改正には別の意図も見ることができる。

 市区改正の目的は「近代的な都市を構築するための解決すべき諸問題」に取り組むことであったが、市内縦貫鉄道問題と同じく市区改正で挙げられていた議題には「福原遊郭の移転」もあった。

 福原遊郭は過去に神戸駅の建設という名目で旧湊川の堤防沿いへ移転させられているが、湊川の付替えにより跡地が新開地として開拓されると、そこに遊郭が存在することが改めて問題視されていたのである。すなわち、“都市の美観”を得るために“ふさわしくないもの”を“都市”から追い出すことを意図した市区改正であったとも捉えることができる。

 “ふさわしくないもの”は遊郭に限らない。当時の神戸には被差別地区が存在しており、その中でも新川・宇治野・番町の三地区は市街地に近い場所にあった。それらも市区改正の名の下で都市から移転させるため、その論拠に市内縦貫鉄道問題も利用していたと考えられる。ここで神戸市が提示した山手地下線案の第一案を見直すと、


(第一案)

・現在の鉄道線路と春日野筋に分かれてすぐに地下線となり、国香通四丁目を経て生田町三丁目に出る

・再び地下線となりて下山手七丁目で地平線となり、楠町八丁目を経て荒田四丁目まで到る

・そこからまた地下線となって会下山下を潜り、神港商業学校上から地平線となる

・番町四、六、七丁目を通過し、更に蓮池にて地下に潜って双子池にて現鉄道線に合流する

・停車場は三宮・神戸両駅とも廃止して生田町三丁目に東部停車場、宇治野に中央停車場を新設し、猶番町七丁目に西部停車場を設置する


 この案は生田川沿いにあったという新川地区を通り、宇治野と番町に停車場を造るという案であったと見ることもできる。

 地下線建設で用いられる開削工法はあらかじめ地上の建築物を撤去する必要が生じ、駅建設では福原遊郭のように強制的に移転させることができたことを考えると、これらの地区を“都市”から追い出すことが念頭にあった可能性は否定できない。


 中でも宇治川上流に位置していたという宇治野は神戸駅のやや北側に位置するため、宇治野に停車場を設ければ神戸駅の敷地も有効利用できる可能性も秘めていた。


…(略)…予の聴く所によれば、商業会議所案は灘より花隈町迄地下線とするにある如きも、同地域は如何に深く掘るも二十尺を限度とすされば所謂打貫工事は危険を感ずるより不可能なり。万一□渠式を採用せんとせば、膨大なる地上を買収せる為莫大の費用を要するを以て之れも亦実行不可能なり。又、市役所案は神戸停車場を宇治野□置かんとするにあるも、神戸市今後の発展より推断する時は神戸駅の広さはプラットフォームの長さ正に五百間あるを要す如斯、広大なる地域は宇治□に求むる事能わず之れ実現に困難を感ずる所以なり。然らば鉄道院の考え如何というに予は全く聞知せざるも参考の為予の私案を披瀝せば、灘駅の少し西方より地下線にて山手を通り、諏訪山下を通過して宇治野へ出で地上線のまま神戸駅に至り神戸駅以西鷹取迄高架式とすべし。而して宇治野以東は複々線にて宇治野以西は複線とし、神戸駅を通過するものは客車専用とし宇治野より別□複線を分派して山手を通り鷹取に至るものを荷物専用とすべし。斯くして神戸駅は純然たる乗客専門の駅とする□得策にして、此私案は石丸副総裁も賛意を表し居り不日調査すべしとの事なりき云々。

(1919(大正8)年7月12日付 大阪毎日新聞 兵庫県附録「神戸縦貫線問題 野村局長の意見」、句読点を追加)


 また、明治天皇の御用邸が一時期宇治川河口にあったことも重なって、特に宇治野は移転させるべき地区と目をつけられていた可能性もある。


 

 もし山手を通る地下線案が実現していたとすれば“都市の美観”を叶えることができたのかもしれないが、その“美観”は地下線で明確に区分けされた内側の“都市”のみに適用され、線路の外側の周辺地域にはそこに取り入れられなかった“ふさわしくないもの”が追いやられていたと考えられる。だが、その要となるはずだった市内縦貫鉄道問題は鉄道省によって現行の場所で高架化という形で解決され、目論見は頓挫した。


 “都市の美観”から地下式を推進した神戸市がどこまで考えていたのかはわからない。しかし、神戸市は技術面や実用面をあまり考慮せずに思い描く都市のイメージをそのまま当て嵌めて考えていたようにも思える。


 本来は都市政策との密接な問題だったはずの市内縦貫鉄道問題は、神戸市に相談せずに計画を立てて摺り寄せられる機会すら与えなかった鉄道院(鉄道省)が独断的であると見ることもできる。

 しかし一方で、神戸市が欧米に倣ったイメージを並べ非現実的な案に終始してしまって現実的な案を持つ鉄道省に太刀打ちできなかった感は否めない。



 


神戸海岸線について

 かつて神戸にあった神戸臨港線は、東灘駅から本線を分岐して小野浜駅を経て神戸港駅に至る通称“小野浜線”と小野浜駅から湊川駅に至る“海岸線”から構成されていた。

 小野浜線は神戸港の築港に大きく関わる路線で1907(明治40)年に完成しているが、一方の海岸線は市内縦貫鉄道問題から派生して建設された路線である。


 前述のとおり、市内を縦貫する鉄道省線は高架で建設されることになったが、その際に新たに問題として浮上したのが当時神戸駅の海側に広がっていた貨物取扱設備との接続であった。高架化される神戸駅から直接接続することが困難となったのである。


 当時、年間670万トンもの貨物を取扱っていた貨物設備は当然無視できるものではなく、4つの方法で検討された。


①「エレベーター」に依り貨物を高架線に移さんとするもの

②「フェリーボート」に依り貨車を小野浜迄航送せんとするもの

③神戸と新川との両駅を連絡する線を敷設せんとするもの

④神戸・小野浜両駅を連絡する所謂海岸線を敷設せんとするもの


 しかし、①の「エレベーター」方式は運用上・経済上ともに不利益と判断され、②の「フェリーボート」方式は神戸港内を貨車渡船を数十回と往復することに支障があり、小野浜駅に渡船の連絡施設を建設するのも困難とされた。

 ③の「新川」とは付け替えられた新湊川のことで、主に大阪や東京方面への発着貨物を扱ってることから鑑みても迂回輸送することになって不合理であると判断された。人口稠密の市街地に新たに線路を敷設することを避ける理由もあった。

 ④の海岸線も神戸・小野浜を地平線で連絡する案であったので保安や衛生上の問題が考えられたが、交通量が少ない時間帯を選んで無煙装置の列車を運転するなどの方法を講じるなどの対策を採ることとして建設が決定した。


 この海岸線建設の草案は1921(大正10)年12月に鉄道省から都市計画神戸地方委員会に提出された。


①本鐵道線路は神戸税関新港構内鐵道線路より右方に分岐し、経間百八十呎橋梁に依り船溜上を横断し、京橋筋を経て内務省立地先税関用地及び内務省計畫埋立地先を通過し神戸驛構内に達す
②線路は地平式單線にして所要敷地は複線とし、将来必要に應じ第二線を敷設するものとす
③税関構内船溜上の橋梁は水面上より桁下迄の高さを現在京橋桁下高以上とす

この諮問に対して、翌1922(大正11)年5月に答申された。

①街路に接する鐵道用地は總て舗装すること
②列車の運転は電気を用ひ、最も交通に支障なき時刻と方法に依る
③踏切及第一波止場の橋梁に関しては、更に詳細の調査に付協議すること

 海岸線については概ねこの計画に乗っ取って建設されることになるのだが、1926(大正15)年に一部の計画が変更になる。


 当初は神戸港駅から分岐する予定だったのだが、保税地域内に内国貨物を通過させることは関税取扱い上に問題ありとして大蔵省から反対され、分岐駅を神戸港駅から小野浜駅へと変更された。


 海岸線の竣工は予定より一年ほど遅れたものの1928(昭和3)年12月に営業が開始され、同時に神戸駅の貨物取扱施設は「湊川駅」として分離された。しかし、この営業に際して問題が生じる。事の発端は11月26日に発表された運転時刻であった。


…(略)…二十六日突如鉄道当局より発表された運転時刻によれば都市計画委員会の答申した条件も神戸市民の希望も全然無視したものなのでこれは神戸市交通上の大問題なりとして税関、市、会議所等関係各官公衙は一勢に起って鉄道当局の無誠意を責め厳重なる抗議を持込むことになった。

(1928(昭和3)年11月28日付 神戸新聞「海岸鉄道開通に伴う大問題 神戸市民の輿論を無視した鉄道当局」、句読点を追加)


 先の都市計画神戸地方委員会からの答申を条件として建設を認めたのに、鉄道省が出した運転計画は②「最も交通に支障なき時刻と方法に依る」という条件が守られていなかった。

然るに、本月二十五日付を以て小野浜駅長より篠原税関長宛に別項時間割により東灘、小野浜、湊川(高浜)の列車運転を、来る十二月一日より開始すべき旨を何等予め諒解を求むるところなく突如として通告あり。これに依れば列車運転回数は下り十五回、上り十四回中最も問題たるべき小野浜、湊川(高浜)間は下り八回、上り九回、その中下りは午前七時より午後六時三十分迄の昼間に六回、上りは同様午前五時三十五分より六時四十五分迄の間に五回あり。都計地方委員会の要求は全然無視され市商工会議所、税関等の希望並に全市民の輿論も悉く蹂躙された結果になった。結果これが善後策として右各官公衙では断乎として鉄道当局の反省を求むべく徹底的に二十八日、右三者会合の協議を遂げて具体的方法を決定することとし、取敢ず篠原税関長は二十七日下林氏を大阪に派し緊急の処置として十二月一日よりの運転を延期せしむべく交渉するところあった。

(1928(昭和3)年11月28日付 神戸新聞「海岸鉄道開通に伴う大問題 神戸市民の輿論を無視した鉄道当局」、句読点を追加)


 また、海岸線が小野浜駅を経由して東灘駅に接続することになったため、それまで湊川駅に近かった神戸駅西方からの貨物が迂回を余儀なくされる上に運賃も値上げされた。これに対する苦情も合わせて鉄道省に寄せられた。


…(略)…神戸臨港鉄道新線の開通によって湊川駅が神戸駅と同哩数に計算されることになったため、中間にある小野浜、新港両駅との運賃計算に不公平を生ずることは既報の通りであるが、これがため荷主は勿論直接貨物取扱いをなす運送業者及び貨物保管の倉庫業者間に異議を醸すことになり夫々対策、陳情等の手段を執ることになり昼間運転の問題と共に重大視されるに至った。即ち湊川駅以西の発着貨物に対し何れも東灘駅を迂回することになったため、小野浜、新港両駅貨物は実哩数湊川駅よりも一哩一分短きに拘らず運賃計算は既報の如く湊川に比し六哩分方増高することになり、倉庫業者としては高浜関係業者と小野浜新港関係業者とその取扱貨物吸収上至大の影響あることになり、二十七日関係業の者ま火曜会において研究協議する処あり。…(略)…

(1928(昭和3)年11月29日付 神戸新聞「神戸海岸鉄道問題 市民大会を開いても飽迄延期要求」、句読点を追加)


 これらのことが重なり、海岸線営業直前になって営業の延期を求める議論が噴出した。

特に海岸線の影響を多大に受ける神戸税関は鉄道省の傍若無人さに憤りを見せる。


大阪鉄道局では問題の重大化せるに鑑み、二十八日午後三時運輸事務所野田配車掛長、今村主任及び角田小野浜駅長をして篠崎税関長を訪問せしめ、問題の経過について聴取する処あり。
税関長はこれに対し、『鉄道当局の今回海岸線開通に伴う時刻表は全く往年の都市計画委員会の決議を無視したもので、貨物本位により作成したもので神戸市の交通、人命危険、美観等を顧みないものである、かくの如き時刻表を作製するまでに鉄道側は何故に予め神戸の関係方面の諒解を得なかったか、今や市の輿論は各方面共悉くこれに反対である、されば取敢えず一日よりの開通を延期し双方これに善処するの余猶を与えられ度い』
と一時間に亘り力説し、これに対し鉄道側は
『右時刻表は前動きの状況を考慮し、都計委員会の決議も考慮したがアレ以上の時刻表は出来なかった、殊に十二月一日よりは全国的に貨車時刻表の改正あり、その接続関係より海岸線だけ変更することは困難である』
旨述べたが最後の決定□鉄道局長等主脳部の裁決を俟たざるべからざるものあり。
条崎税関長は二十九日直接村上大鉄局長を訪問、運転延期を慫慂する筈である右につき篠崎関長は語る。
『きょう鉄道側に厳談して署いたので多分開通を延期して此間に善後策を講ずるの余地を与えて呉れると思う、右鉄道は布設当初より市民の反対あったのを開通したもので鉄道側は荷物本位で市の迷惑というようなことは考えていないやり方だ殊に追って京橋、加納町、メリケン踏切の如きには高さ二十尺の自動鉄骨遮断機を設ける計画あり。交通とか人名を全く無視したやり方であり、鉄道側が飽まで此儘で押進むならば市民大会を開き鼓を鳴らして反対しなければぬ』

(1928(昭和3)年11月29日付 神戸新聞「神戸海岸鉄道問題 市民大会を開いても飽迄延期要求」、句読点、括弧、改行を追加)


 市内縦貫鉄道問題でも触れたように、鉄道省は周辺の関係者との協議を満足にしないまま推し進める傾向が強かったのかもしれない。

 しかし、神戸税関も引き下がるわけにもいかない。海岸線の運転計画では税関でも荷物が多い時間帯に貨物列車が往来するので貨物取扱量が減少する危惧があった。


…(略)…先ず神戸税関長より都計委員会決議の理由を述べ鉄道当局がこの点に余り考慮せなかったのを遺憾とする旨を説明し、『昼間は運転せぬという条件即ち片輪の筈の汽車を一人前のものとして昼夜運転されては当方は迷惑千万であって当局は公約無視を何によって償わんとするか、及び事茲に至れる事由の説□を求めこれによって善後の協議を遂げたし』
と述べ遠藤運輸課長、
『手落のあったことは重々お詫びする』
と運輸開始にいたる経過の大要につき
『工事関係は本省直轄の改良事務所でやる仕事で鉄道局とは全然関係はない。これが完成後の運輸は勿論鉄道局に属するものであって、当局としては本省から工事が完成したから十二月一日より運転を開始すべしとの命令を受けたのみである。尤も電気機関車を用うべきこと、及び交通に支障なき時刻に運転すべしとの都計委員会の決議を受けたのは古い事だが局長は承知して居る筈で、去る大正十四年夏の打合会でも話があった。電気機関車は工作局でやる筈になって既に注文済で十二月一日の間に合う筈が都合でおくれたが来月三月頃は間に合う予定である。線路が保税地域を通ることについては税関当局と相談せねばならぬ筈だったが、これをしなかったのは迂闊千万で申訳がない。都市計画へ時間割の相談しなかったことも相済まぬ。こちらとしては大阪の臨港鉄道、貨物線及び神戸の海岸線、何れも十二月一日より開通すべしとの命令により貨物運輸系統の上からも是非三者の運転を同時に開始すべき必要を認めて斯く決定した次第である』
と平身低頭陳謝して事情を述べ
『デーゼルエンジンによる電気機関車が早速できぬので、応急策として無煙炭を使用し交通事故防止のためには運転速度を七、八哩度に緩和し万全を期した。運転回数は現在の貨物量を基準にしたので回数を増減することは困難であって平均二十輛連結の八往復、十六列車としたのであって、これは各鉄道局との関係もありその他種々の関係からこれを昼夜何れかに偏せしめるようなことがあっては貨物の輸送遅延をなし鉄道の不便のみならず荷主の不利益も一通りでない』
と大体の経過を述べ二十九日神戸側と大阪鉄道局に於ける会見が行き違いになったことにつき
『決して、会見を廻避したのではない』
と屡々説明して諒解を求め
『結局、御希望通り一日からの運転を延期するということは鉄道局の権限でない。強いて此点を主張さるるに於ては解決は永引き満足な結果は得られぬか□知れぬから、この点□は触れず、列車の運転時間その他の点につき誠意を以って希望に応ずべく努力したし』
と鉄道当局の意見を述べて諒解を求むるに努力した

(1928(昭和3)年12月1日付 神戸新聞「神戸海岸鉄道問題一先づ解決を告ぐ 大評定の結果暫定諒解成り愈よきょうから開通」、括弧、改行を追加)


 “工事は鉄道省が施工し、大阪鉄道局は本省に指示された通りに運転するだけなので全然関係ない。(無煙化で導入予定の)電気機関車は工作局に注文したが都合で遅れて来年3月頃には間に合う予定でいる…”と、鉄道省側はやや言い訳がましい言い分に終始している。

 最終的に、ラッシュアワーに相当する時刻の列車の運転を当面の間休止することで調整することとなった。


神戸税関を中心とし県、市、会議所等から極力反対意見を披瀝したるに拘らず、大阪鉄道当局が昼間の運転を全廃するの色見えず、且つ予定の十二月一日よりの運転開始を延期すべき傾向なきため、問題は更に拡大して鉄道対大蔵両省の繋争となり県、市、会議所等も加わって地方問題たると同時に中央の問題となるやも知れずと憂慮された神戸海岸鉄道問題は、三十日午後二時より六時まで前後四時間の大評定の結果、鉄道当局の誠意により暫定的の諒解成り、運転は予定通り十二月一日より開始すること、但し昼間のラッシュアワー、午前、午後、各二回は当分運転を見合せることとし爾余の諸問題は今後更に協議し鉄道当局としては出来得る限り税関並に県、市、会議所等の意見を尊重し機宜の処置を執ることを遠藤運輸課長より言明し一先ず解決を告げることとなった。…(略)…

(1928(昭和3)年12月1日付 神戸新聞「神戸海岸鉄道問題一先づ解決を告ぐ 大評定の結果暫定諒解成り愈よきょうから開通」、句読点を追加)


 こうして各方面に確執を生じさせながらも海岸線を含む神戸臨港線が完成し、市内縦貫鉄道問題は終焉することとなる。


 

 最後に、記事内の「デーゼルエンジンによる電気機関車」について簡単に触れる。


 鉄道省はDC11形・電気式ディーゼル機関車とDC10形・機械式ディーゼル機関車をドイツから輸入し、どちらも海岸線に導入された。「デーゼルエンジンによる電気機関車」はDC11形の方を指すと思われ、DC10形はその比較として導入されたという。


煙を吐かぬ汽車-ディゼル機関車が日本ではじめて動いた。一日午後零時六分鷹取発、一時十分大阪着の予定が十分遅れて大阪駅に姿を現わした。濃褐色の四角な怪物のような姿、汽笛一声のピーピーではなく、バーバーと飴屋のラッパのような笛を吹いてブーブーと物凄い響きをたてて入って来た。もっともうっすり青い油煙を車の真中から上げていたが、風呂屋の煙突くらいの程度だ。時ならぬ異様な汽車が入ってきたので、駅では乗客がしきりに珍しがる。試乗の桑原監督官や秦鷹取工場長が客車から顔を出して「とても調子がよい」と喜んだが、エンジン冷却用のファンの恐ろしい回転のため、車底から吸い込む空気がひどい砂塵の渦をまち散らす、これだけは何とか工夫せねばならぬと頭をひねっていた。機関車は午後三時十分大阪発、鷹取まで試運転を行い、引続き三日も同様の試運転を行う。これは八月末から神戸海岸通を貫く海岸線を走ることになっている

(1928(昭和4)年8月2日付 神戸新聞「とても調子のよい煙を吐かぬ汽車 飴屋のような笛を吹いて日本最初のデイゼル機関車」、句読点を追加)


 ディーゼル機関車は世界的に見てもまだ黎明期で調整や整備に苦労したと言われているが、特に早々から無煙化が求められた海岸線には率先して導入する必要があったと考えられる。

  DC11形もDC10形も後に廃車となった際には全て分解・分析され、日本のディーゼルエンジンの発展に大きく貢献したという。結果的に海岸線が鉄道史や機械史にも関係することになるのは興味深い。







〈参考文献〉

神戸市役所都市計画部『神戸都市計画調査概要』,1922(大正11)年11月20日発行

神戸市役所都市計画部『神戸縦貫高架鐵道ニ関スル諸問題』,1923(大正12)年2月27日発行

神戸市役所都市計画部『市街区割及高架線高架ニ関スル調査』,1923(大正12)年9月27日発行

神戸市役所都市計画部『神戸都市計画決定事項』,1925(大正14)年4月20日発行

神戸市『新修神戸市史 歴史編Ⅳ 近代・現代』,1994(平成6)年1月20日

神戸市会事務局『神戸市会史 第二巻 大正編』,1970(昭和45)年

安保則夫『ミナト神戸 コレラ・ペスト・スラム 社会的差別形成史の研究』,株式会社学芸出版社,1989(平成元)年6月20日発行


『都市経営と地下鐵道』,工学会誌 第四三○巻,土木学会,1919(大正8)年7月

岡野昇『東京,大阪,名古屋,及神戸ノ四大都市ニ於ケル鐵道ノ新計画事業ニ就テ』,土木学会誌 第六巻第三号,1920(大正9)年6月

森垣亀一郎『大神戸縦貫高架鐵道及ビ交通調査資料並ニ下水道計画大綱』,道路の改良 第六巻第四号,土木学会,1924(大正13)年4月

中川正左『地下鐵道に就きて』,道路の改良 第六巻第七号,土木学会,1924(大正13)年7月


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