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05-02 天井川 ー 草津川と木津川流域の天井川 ① ー
1.草津宿の発展と草津川 琵琶湖から唯一流れ出る瀬田川に架かる瀬田橋は東西の交通の要で、「瀬田橋を制する者は天下を制す」とも言われ、瀬田橋を挟んだ両岸の大津と草津を押さえることが重要視されていたという。 (1/20000『京都及大阪』より)...

05-01 天井川
かつて北海道テレビ(HTB)の番組「水曜どうでしょう」の企画「試験に出るどうでしょう」の中で、大泉洋さんが“天井川”を答えられない場面がありました(1999年2月10日放送分)。 もちろん大泉さんが地理に弱くて天井川を知らなかったというのもあるのですが、実は北海道を含む東日...


Column01 1920年代 ー100年前に思いを馳せるー
今から遡ること100年前の1920年代は、アメリカで「狂乱の20年代」と呼ばれるほど、歴史的・文化的に大きな転換点があるように思える興味深い年代です。 それまで世界の中心だったヨーロッパが第一次世界大戦によって相互破壊を経験した結果、それまで無視、あるいは収奪の対象とされて...


02-04 歩道橋計画1960 -「歩道橋」の終焉-
歩行者が道路を安全に渡るために設置された歩道橋も、時代の変化とともに「“交通戦争”の寵児」から「バリアフリーの障害」へと評価が変わっていった。同時に、設置から50年近く経過するものについては老朽化と維持管理費が問題視され、撤去される傾向が大きくなっていった。これは維持管理に...


04-07 (補遺) 京都・熊野橋について
日本における鋼材の発達は欧米諸国とほぼ同時で、また、鋼材が建築部材として使われる過程でラーメン構造が生まれ橋梁に転用されたとすると、日本の鋼製ラーメン橋脚の起源を探るのは難しい。鉄道橋では1912(大正11)年の淀橋跨線橋とされているが、こと道路橋となると年代も場所も定かで...


04-06 鋼製ラーメン構造の橋梁の誕生と歴史的背景
近代日本で橋梁における鋼製ラーメン構造(鋼製ラーメン橋、鋼製ラーメン橋脚)が採用された時期は1920~30年代に集約され、これは第一次世界大戦と第二次世界大戦の間のいわゆる「戦間期」と合致する。鋼製ラーメン構造の橋梁が登場し隆盛した背景には、この時代特有の事情が絡んでいると...


04-05 戦前の東京における鋼製ラーメン橋およびラーメン橋脚の分布について
東京の鋼製ラーメン橋・ラーメン橋脚を見に回った時、地域が限定的な感じを受けた。 そこで、その分布の特徴について考察してみる。 1.中央線の鉄道工事史 1926(大正15)年の新屋敷架道橋と飯田橋通架道橋、1932(昭和7)年の新水道橋架道橋はいずれも中央線の架道橋であり、ま...


04-04 外苑橋について
明治神宮外苑の一角、東京都道414号四谷角筈線と、同じく東京都道418号北品川四谷線(通称“外苑西通り”)に外苑橋が架けられている。1928(昭和3)年に架けられたこの橋は、径間59フィート(およそ18m)、脚高16フィート(およそ4.9m)、左右の側径間をゲルバー桁とした...


04-03 鉄道橋における鋼製ラーメン橋脚の歴史的背景と分布について
1.ポスト橋脚と鋼製ラーメン橋脚 ポスト橋脚とは 鋼製ラーメン橋脚の誕生に大きく関わるポスト橋脚(形鋼とレーシングバーをリベットで結合した鋼製支柱)について簡単に触れてみる。 ポスト橋脚はかつて架道橋や跨線橋に使われていた橋脚の支柱で、『鉄道技術発達史』にはこのように記載さ...


04-02 戦前日本における鋼製ラーメン構造の橋梁について(2)
今回は戦前日本の鋼製ラーメン橋脚について見ていきます。 1922(大正11)年 【鉄道橋】淀橋跨線線路橋(山手線,新宿~新大久保間) 門型ラーメン橋脚で、鉄道橋で日本最初の鋼製ラーメン橋脚とされます。淀橋跨線線路橋は後年に架け替えられたため、当時の門型ラーメン橋脚は現存しま...


04-01 戦前日本における鋼製ラーメン構造の橋梁について(1)
ラーメン構造は鋼材やコンクリートの普及に伴って近代に発達した構造です。その中から今回は、分布や年代が限定的だったと考えられる戦前日本の鋼製ラーメン構造の橋梁について見ていきます。 ここでは道路橋・鉄道橋とも1926(大正15)年に登場したと考えられる鋼製ラーメン橋の歴史に触...


03-04 “今津南線”の建設について -補遺-
今津線と水路 今津線の周辺にはいくつか水路があり、そのうちの一つは今津線と並走する形で存在していた。 この水路は現在も使われているのか、または暗渠になっているのかまでは定かではないが、その一部は今でも見ることができる。 国道駅付近に橋の欄干があり、そこには「今津橋」という名...


03-03 “今津南線”の建設について(2)
2.土木構造物の特徴 ほとんどの区間が高架線として建設された“今津南線”は関西の鉄道高架線として最初期にあたり、その土木構造物は他の鉄道高架線と比較しても非常に特徴的であり特異な存在といえる。 ①コンクリートラーメン高架橋...


03-02 “今津南線”の建設について(1)
西宮北口~今津間の通称“今津南線”は開通当初からほとんどの区間が高架線として開業した。この路線の建設工事に関する資料が今のところ見当たらないため、現地調査や地図を用いて考察することとした。 1.高架線建設の背景 まずは開業前の1923(大正12)年の地図から。...


03-01 阪急今津線「今津南線」
阪急今津線は宝塚から西宮北口を経て今津に至る路線ですが、現在は西宮北口で線路が分断されていて、宝塚~西宮北口間と西宮北口~今津間とで運転形態が分かれています。今回は通称「今津南線」とも呼ばれる後者の区間を取り上げます。 今津線は宝塚西宮線として計画されていた路線で、1921...


02-03 歩道橋計画1960 -京都のラーメン歩道橋の謎-
京都のラーメン歩道橋とは 京都市内には2径間の鋼製門型ラーメン橋の歩道橋が、五条通を中心に5ヶ所存在する。 1.有隣横断歩道橋(五条高倉) 2.尚徳横断歩道橋(五条新町) 3.醒泉横断歩道橋(堀川五条) 4.光徳横断歩道橋(五条壬生川) 5.安寧歩道橋(堀川塩小路)...


02-02 歩道橋計画1960 -初期の歩道橋-
横断歩道橋の誕生と標準設計までの経緯 昭和33(1958)年3月31日、「道路整備緊急措置法」(法律34号)の制定に伴い、道路整備五箇年計画が定められ道路整備が促進されたが、急増する自動車に追い付けずに歩行者の死亡事故が激増し、昭和30年代後半にはいわゆる“交通戦争”と呼ば...


02-01 歩道橋計画1960
歩道橋が1959(昭和34)年に初めて架けられて1966(昭和41)年に標準設計が制定されるまでの間、歩道橋のデザインや構造は自治体などの設置者に委ねられていたために様々な形態を見ることができます。 そこで現存する1960年代の歩道橋に着目してみることにしました。(※撮影時...


01-02 神戸の市内縦貫鉄道問題【問題の経緯】
※およそ25,000文字の長文です。 神戸の中心部を東西へ貫く「神戸市街高架線」は、第一期工事が1931(昭和6)年に、第二期工事が1937(昭和12)年にそれぞれ完成した。 鉄道の高架線は明治後期から主に首都圏で建設され始め、関西では新京阪鉄道(当時,現在の阪急京都線)が...


01-01 神戸の市内縦貫鉄道問題【歴史と高架橋の種類】
歴史と特徴 大阪~神戸間は日本で二番目に開業した鉄道路線です。当時はさして問題にならなかったはずの線路が、市街地の急激な発展に伴って次第に障害になっていったのです。 一番の問題は何といっても「平面交差」で、踏切は市街地の数か所に及び交通の妨げになりつつあったのです。それを解...
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