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執筆者の写真sato

02-03 歩道橋計画1960 -京都のラーメン歩道橋の謎-

更新日:2020年10月11日

京都のラーメン歩道橋とは


 京都市内には2径間の鋼製門型ラーメン橋の歩道橋が、五条通を中心に5ヶ所存在する。




1.有隣横断歩道橋(五条高倉)




2.尚徳横断歩道橋(五条新町)




3.醒泉横断歩道橋(堀川五条)




4.光徳横断歩道橋(五条壬生川)




5.安寧歩道橋(堀川塩小路)




共通の構造は以下の通り。

・H形の橋脚。

・下から見ると横に補剛材が入っている橋桁。

・やや低めの手摺り。(床上およそ1m)


 これらの歩道橋には横から見た時に受ける“細い”印象は、これらの要素が関係すると考えられる。いずれの歩道橋も標準設計が定まった1966(昭和41)年の後に架けられているが、標準設計ではあまり用いられない鋼製門型ラーメン橋であることが大きな特徴となっている。この構造及びデザインが選定された要因について考えてみる。




歩道橋の銘板


 横断歩道橋にも一般の橋梁と同じく銘板が取り付けられている。その銘板からいろいろな情報を読み解くことができる。 


1.有隣横断歩道橋


2.尚徳横断歩道橋



3.醒泉横断歩道橋



4.光徳横断歩道橋



5.安寧歩道橋




 銘板から読み解ける情報を一覧にしたのが以下の表である。



 まず、五条通の4ヶ所は1968(昭和43)年に近畿地方建設局(建設省)による建造、堀川塩小路の安寧歩道橋のみが1969(昭和44)年に京都市による建造と、ほぼ同じ時期に集中して建造されていることがわかる。

 製作会社について見てみると、光徳横断歩道橋のみ会社名が判別できなかったものの、全ての歩道橋で異なっている。これは歩道橋の製作・架設が入札案件であったため設計や仕様は建造者によって事前に決められていたと考えられる。しかしながら、建造者が近畿地方建設局と京都市の二者に分かれていても仕様が同じということは、そこには統一のデザインがあった可能性が高い。

 設計の根拠となる歩道橋指針を見てみると、建造が最も遅いはずの安寧歩道橋が1964年となっていることから、京都市がもともと堀川塩小路の交差点に横断歩道橋を設置する予定を立てていたと思われる。その計画に対してデザインの統一を求めて設計変更が促され建造が遅れたとすれば、安寧歩道橋が最も早い設計指針でありながら最も遅い建造になっている理由を説明することができる。すなわち、建造者に関係なく優先されたデザインがそこにはあったと見られる。



SS41と高張力鋼SM50


 歩道橋の標準設計が定まる前に最も多く架けられたのは京都市のラーメン歩道橋と同じ「上路式鋼製門型ラーメン橋」であったとされるが、それらの歩道橋のほとんどには一般構造用圧延鋼材「SS41」が用いられている。SS41は横断歩道橋の標準設計が定められた後も原則的に用いることが規定されている鋼材である。

 しかし、京都市のラーメン歩道橋ではそのほとんどで溶接構造用圧延鋼材「SM50(もしくはSM50A)」も使われているという特徴がある。この鋼材とデザインの関連性について考えてみたい。

 

 まず、鋼材「SS材」と「SM材」について簡単に見てみる。

 一般構造用圧延鋼材「SS材」は1921(大正10)年に制定された日本標準規格(JES)により規格化され、1938(昭和13)年に第430号 G56として平鋼に「SS41」が規定された。SS材の「SS」とは一般構造用圧延鋼材を表す材料記号で「Steel Structural」の頭文字である。鋼材の数字は引張強さの下限で、SS41の場合は41㎏/㎟を表している。

 標準規格は戦時中に一部で品質を落として規格が制定されたが、1948(昭和23)年にJES第430号と同等の規格としてJES金属3101が制定された。1949(昭和24)年に工業標準化法が制定され、JESは日本工業規格(JIS)となり、JES金属3101は1952(昭和27)年にJIS G 3101として制定された。SS41はその中に含まれている。


 一方、溶接構造用圧延鋼材「SM材」は1925(大正14)年に制定されたJES21号造船用圧延鋼材を発祥とする。「SM」の「M」は「Marine」の頭文字であり、船舶向けの溶接構造鋼材であった名残である。造船用であったものの、当時はちょうど各分野で溶接工法が普及しつつあり、溶接性のよいものとしてSM材が制定された。1952(昭和27)年、JIS規格が制定されると「SM41」がJIS G 3106として制定された。

 その後、鉄塔協会を中心に高張力鋼の研究が始まり(のちにSS50として結実)、同じ頃には日本造船研究協会が構造用高張力鋼HT52の研究が始められていた。このように各種の50キロ鋼が開発され、特に溶接性に重点が置かれた溶接構造用圧延鋼材「SM50」が1959(昭和34)年にJIS G 3106の中に新設された。


 なお、現在はSI単位系を取り入れて単位が㎏/㎟からN/㎟に変わったので、SS41及びSM41はそれぞれ「SS400」「SM400」、SM50は「SM490」と規格の表記も変わっているのだが、ここでは建設当時の表記をそのまま用いることとする。


 

 さて、横断歩道橋に目を移すと、SM50がJISで制定された1959(昭和34)年は奇しくも日本初の歩道橋が架けられた年でもあり、部材の可能性はまだ研究段階であった。何より普通鋼でも造られるものに特殊鋼を用いる必要性は無かったため、標準設計が定まる前ではSS41が使われていたと考えられる。

 歩道橋にいつ頃からSM材が用いられたかは定かではないが、SM材が用いられた事例としては、1967(昭和42)年3月に札幌市で最初に架けられた「豊平駅前歩道橋」のSM41が挙げられる。この歩道橋は設置された時期がほぼ同じである上に、上路式鋼製門型ラーメン橋という構造も京都のラーメン歩道橋と共通点がある。

 SM材はSS材と比較して溶接に適した鋼材であるため、特に長大な構造物の場合にはSS材より軽量に製作できるという利点がある。また、溶接であればリベット等を減らせるので見た目にもすっきりできる。それらを勘案すると、ラーメン歩道橋を理由にSM材を用いた可能性が高い。

 この中で尚徳横断歩道橋だけはSM50を使用してないように見受けられるが、歩道橋のデザインや構造から察すると他の横断歩道橋と同様にSM50も使われたと見るべきであろう。建造も唯一「建設省」となっており、銘板の表記か取付に誤りがあったと思われる。




場所とデザイン


 ラーメン歩道橋がある場所を見てみると、五条通=国道9号、堀川通=国道1号と、いずれも国道に設置されているという共通点があり、歩道橋を設置するとすれば道路の管理者である近畿地方建設局(建設省)が設置することになる。五条通の4ヶ所の歩道橋は正にその典型であるが、安寧歩道橋が京都市であるのにはいささか違和感が残る。これに関しては前述の通り、もともと市道である塩小路通に歩道橋を架ける予定であったのが変更されて堀川通にも歩道橋が延長されたとすれば辻褄が合う。

 しかし、五条通や(南で接続する油小路通を含む)堀川通の他の歩道橋にラーメン歩道橋は採用されておらず、また、同じ国道でも国道171号線や旧国道1号線の歩道橋でも同様にラーメン歩道橋は存在しなかった。当然ながら同じ時期に設置された京都市内の他の歩道橋でも同じことが言えた。つまり、ラーメン歩道橋はこの5ヶ所に限定されたデザインであった。

 では、この5ヶ所に共通するのは何なのだろうか。



 1967(昭和42)年当時、都市内交通に対処するものとして、南北方向では堀川通、油小路通を中央軸に、東西方向では五条通を軸に整備をすすめる方針が定められていた。ラーメン歩道橋の設置個所はこの軸に沿って存在していることから、軸を行き来する車から“見られる”ことがデザインの前提にあったと思われる。そのため、軸の中心となる堀川五条の交差点には、もちろん交差点が大きいからという理由はありつつも、どの軸からも見えるように歩道橋が交差点を囲む形になったと考えられる。


 だが、前述のように軸の全てにラーメン歩道橋が設置されたわけではない。設置された場所を改めて見てみると、東の鴨川と西の山陰線の線路、そして南の東海道線の線路と北の五条通に囲まれた範囲に限定されていることがわかる。



 実際には北側はおそらく五条通ではなく、さらに北に位置する四条通であると思われるが、四条通には歩道橋が存在しないため、現実的には五条通が北の境目となる。すなわち、この範囲が対処すべき都市内交通の範囲であったと思われる。むしろその範疇にあって交通量が多い道路であっても、祇園祭の山鉾巡業がある四条通と、京都駅から御所までの行啓道路である烏丸通には歩道橋が存在しないことから、この範囲に設置された歩道橋は後にも先にもこの5ヶ所のラーメン歩道橋のみであると言い換えることができる。


 

 以上のことから、京都市内交通の主軸となる道路に設置されたラーメン歩道橋は、建造者に関係なく統一したデザインとされ、それを実現するためにSM50が用いられたと考えられる。統一されたデザインがどのように選定されたのかまでは現状ではわからないものの、なぜ1968年頃に集中して設置されたのかを考えると、あくまで推測だが、1970年に開催された大阪万博が関係しているように思える。すなわち、京都のラーメン歩道橋は万博を通じて京都を訪れる国内外からの観光客に対して、現代の京都をアピールするために設置された装置の一つであったと推察するのである。

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