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  • 執筆者の写真sato

04-04 外苑橋について

 明治神宮外苑の一角、東京都道414号四谷角筈線と、同じく東京都道418号北品川四谷線(通称“外苑西通り”)に外苑橋が架けられている。1928(昭和3)年に架けられたこの橋は、径間59フィート(およそ18m)、脚高16フィート(およそ4.9m)、左右の側径間をゲルバー桁とした門型ラーメン橋である。この構造の道路橋は数が少なく、個人的に非常に興味がそそられた。


 さて、この外苑橋には大きく二つ特筆すべき点がある。一つは御茶ノ水橋の先行事例として架橋されたこと、もう一つは日本で最初期の立体交差であることである。これらを交えながら外苑橋について見ていきたい。


 

 1923(大正12)年に発生した関東大震災により甚大な被害を受けた東京は、内務省の外局として設置された復興局によって都市計画が見直され、インフラ整備も大きく進められた。その中で東京市内の橋梁については復興局と東京市とで分担して橋梁の架設、架け替えが進められた。御茶ノ水橋は当時の東京市によって神田川に架けられたが、このデザインの決定には復興局によって隣に架けられた聖橋の存在が影響している。

お茶の水橋


聖橋


設計着手の時、先づどんな橋種を撰ぶかゞ問題で、直ぐ考に浮ぶことは、下流の聖橋との對照である、今でこそ聖橋がどんな風に還境をリードしてをるか、一目瞭然だが、本橋の設計に着手した際は、復興局で模型や圖面を見、或は現場を見るなりして、先づ想像を馳せるばりであつた。今から考へると第三者は、笑事位にしか思つて呉れないだらうが、設計者の立場からは、當時は決してそんなものではなかつた、何分聖橋の架設地位は、御茶之水橋より大分高い、而かも鐡筋混凝土拱と云ふからには、出来上りは相當雄大な観のものに違ないことは肯かれ明瞭且工事の着手も復興局が先になることも明かで、全く我々は不利な立場になってゐた、こんな具合で兎に角橋種は鐡橋にして、輕快に行かう、型式として成るべく曲線を用ひないものにしようと云ふ考であつた。
小池啓吉「御茶之水橋架替工事」土木建築雑誌第9巻第11号,P.415

 お茶の水橋は設計の段階で、コンクリートアーチ橋である聖橋の重厚で曲線的なイメージと対称的に軽快で直線的な鋼橋とされ、その結果、門型ラーメン橋が選ばれた。

 しかし、当時の東京市では門型ラーメン橋を施工した事例が無かったため、御茶ノ水橋を施工する前に他の橋で同型式の施工を試す必要があった。それが外苑橋であった。


次に施工法の研究だ、市の橋として彼れだけの高度のある橋はちよつと他に類がない、我々市の技術者にとつては、最初は多少手をつけかねた所もあつた、此型式の橋は今迄に經驗のなく始めての計畫なので、ちよつとどんな風になるかと云ふ不安があつたので、小手調として同型のものを、明治神宮の外苑橋に行つて見て、大に意を安んじたのである。
小池啓吉「御茶之水橋架替工事」土木建築雑誌第9巻第11号,P.416

 明治神宮外苑に明治神宮競技場(後の国立競技場)や明治神宮球場といったスポーツ施設が建設されたのは1926(大正15)年。一方、御茶ノ水橋の型式選定に影響を与えた聖橋の竣工が1927(昭和2)年。外苑橋の架橋計画が立ち上がったタイミングと御茶ノ水橋の型式選定がほぼ同時期であったことから、先行事例として外苑橋が選ばれたと考えられる。

 しかし、橋梁デザインとして考えた時、御茶ノ水橋は施工経験の有無に関係なく周囲の環境から橋の型式が選定されことが窺えるのだが、外苑橋にしてみればその型式選定に遠因したはずの聖橋も付近には無く、御茶ノ水橋の選定基準と矛盾することになる。

 この矛盾について考える時、外苑橋のもう一つの側面、すなわち、日本で最初期の立体交差という点が影響すると思われる。

自動車の交通が多くなるに隨つて、街路と街路との交叉箇所の交通整理が面倒になつて來た。今迄の「赤、靑、信號」の斷續式の交通整理では、交通能力が非常に減ぜられるので牛込區飯田橋、西側及荒川區三河島五丁目等の交叉點では、循環式の交通整理に改築することになつて居る。循環式交通整理でも尚不充分のところは明治神宮外苑橋、小石川區目白臺の千歳橋の様に、一方の街路が他方の街路の上を越すことにしなければならぬ。
「東京市土木読本」P.59~60

 上記のように、当時の東京では自動車の円滑な通行を目論み、交通量の多い交差点にはロータリー交差点を、それでも不十分な箇所については立体交差にすべきという考えがあり、その代表例の一つとして外苑橋が挙げられている。

 だが、外苑橋が架けられた時期は外苑のスポーツ施設が建設された直後であり、架橋計画の段階で立体交差にしなければならないほどの交通量だったのだろうか。


 ここで立体交差の代表例として挙げられているもう一つの千歳橋について触れる。土木読本では「千歳橋」となっているが実際には「千登勢橋」で、目白通りと明治通りとが交差する箇所に1932(昭和7)年に架けられた鋼製アーチ橋である。

千登勢橋


 では、なぜ外苑橋と千登勢橋は立体交差の橋となったのだろうか。この2つの橋に共通するのは、どちらも関東大震災の復興時に計画された環状道路を跨いでいる点である。外苑橋は外苑西通りこと環状第4号線、千登勢橋は明治通りこと環状第5号線。つまり、どちらも将来的に交通量が増えるだろう計画道路に設けられた、立体交差のモデルケースであったと考えられるのである。


 

 さてここで改めて外苑橋のデザインを見てみると、同じ立体交差でも外苑橋は直線的な門型ラーメン橋で、片や千登勢橋は曲線がイメージされるアーチ橋である。用途が同じであっても種類が異なるのは、その建造者が前者は東京市、後者が東京府であったことに起因すると考えられる。

框が構造物として採用される主なる理由は所要の空間が力學的に安全に充分得られ、材料が比較的經濟的であり且つ外観に於て瀟洒たる近代機構美を遺憾なく發揮出來得るの諸點にある。然し拱に比し何れがよき外観を呈するかは相當考慮すべき問題で一般的には拱の方がより美的であると言ひ得る。
徳善義光「市街橋としての鋼鈑框橋」エンジニア―第10巻第8号,P9

 文中の「框」はラーメン、「拱」はアーチのことである。この文を書いた徳善義光氏は東京市橋梁課の掛長であり、当時の東京市はアーチ橋よりラーメン橋の方が経済的にも外観的にも優れていると考えていたことが窺える。1936(昭和11)年に計画・製作されつつも戦後に架けられた曙橋が鋼製ラーメン橋であるのも、その名残であると考えられるのである。

曙橋


 その一方で、東京府は復興局同様、アーチ橋に美的外観を求めた可能性がある。結果的に、外苑橋と千登勢橋の対比は、御茶ノ水橋と聖橋の関係性にも似ているように思う。

 

 ところで、外苑橋の銘板を見ると、汽車製造株式会社大阪工場で製作されたことがわかる。


 震災復興で新設または架け替えられた橋梁の数が多かったため、東京地方のみならず阪神地方の橋梁メーカーや工場にも発注された。


 数百におよぶ鋼橋上部構造は、東京地方および阪神地方のメーカーによって製作・加工・組立が行なわれた。メーカーには橋梁専門メーカーと、造船その他鋼構造を業務とする非専門メーカーとがあって、復興局が発注した製作工場はおよそつぎのとおりであった(復興局直営工場であった蔵前工場の分も併記)。
 
 復興局が発注した橋梁製作工場
工場:石川島造船所 橋数:18 重量:6205t
工場:横河橋梁東京工場 橋数:21 重量:8213t
工場:横河橋梁大阪工場 橋数:14 重量:2580t
工場:浅野造船所 橋数:2 重量:291t
工場:汽車製造大阪工場 橋数:6 重量:3498t
工場:日本橋梁 橋数:11 重量:2385t
工場:三菱造船神戸工場 橋数:16 重量:2094t
工場:川崎造船所 橋数:10 重量:8818t
工場:大阪鉄工所 橋数:1 重量:229t
工場:復興局蔵前工場 橋数:6 重量:613t 
『日本土木史』P.686 表-5.29より

 文章は復興局に関してだが、東京市が発注した橋梁についても同様であったと考えられる。なお、御茶ノ水橋は横河橋梁製作所によって製作されており、橋の型式と製作工場とは特に関連がないことが窺える。


 外苑橋は日本の橋梁史において目立たない存在であるが、橋梁デザインの決定要件や背景を見ると興味深く、看過できない橋梁なのである。

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